幼年の日の思ひ出 ー ツグマサ・ヘッセ
金は天下の回りものっていう言葉がございまして、金銭は一つの所にとどまるものではなくて、持っていてもいつかは失ったり、今はなくてもいずれ持つことがあるという意味です。
かの有名な志村けんさんに纏わる、こんなお話がございます。
ある若手芸人が、娘が病に倒れて治すのに三百万円ほどかかると嘘をつきました。
志村さんは
「出世払いで返してくれりゃあいいから」
と、その若手芸人に一千万円を渡したそうなんでございます。
結局、その嘘は先輩芸人によって暴かれるわけなんですが、志村さんはそれを知っても怒らずに、むしろ娘さんが無事でよかったなんていって安堵したそうです。
そして最後に
「貸した金?どうでもいいよ。金は天下の回りものだ」
と、この言葉を言ったそうなんですね。
この話の真偽のほどは分かりませんが、仮にホラ話だとしても、そういったお話が語られるほど志村さんのお人柄の良さというものが伺えるわけです。
うちにもその昔、金で天下じゃなしに家の居間を親父に殴られながら回った者がおりました。
私の兄です。
あれはまだ私が年中か年長くらいの頃だったでしょうか、兄は当時小学三〜四年生といった所です。
そんなある日の夕方です。私がテレビで漫画を見ておりましたら何やらお袋と兄が激しく言い争っているんですね。
テレビを見ながら聞き耳を立ててみますとね、
「あんた!アタシの財布から黙って万札抜き取ったね!」
とおふくろが言っているわけです。
ですが、兄は兄で
「そんなの知らねえやい!」
と言い返すんです。
するとおふくろが
「じゃあこれはなんだい!!」
と、1枚のレシートを兄に突きつけたんでございます。
後に聞いたら、そのレシートにはポケモンカードを六千円分買っていたことが記してあったそうでございまして。
好きな物をありったけ、なんともまぁ子供らしい買い物ですよ。
ですが、兄もまだまだ引き下がりません。
「レジで前に並んでた奴が落としたのを拾ったんだい」
今考えれば前に並んでいる人の落としたレシートを、自分の家まで持って帰る人間がどこの世界にいるんだという話でございますが。
そもそも親から盗った金で買い物をしておいてレシートは律儀にきちんと貰うというのもまたまた子供らしいものです。
どっちにしたっていやはや詰めが甘い。
ここで騒ぎを聞きつけて、親父が自分の部屋から居間へ出てくるんです。
これもまた後から聞いたものなんですが、おふくろが自分の財布から万札が無くなったと気づいた時、実は親父にも「あんた盗ったろう!」と問いただしていたそうなんですね。
ですから先ほどの話を聞きまして親父は黙っちゃいられないわけです。
「てめえこの野郎!」とまず近くにあったVHSビデオのケース箱を兄に投げつけましてですね、それがテレビを見ているフリをしていた私の前まで飛んでまいりました。
それから「うちに泥棒はいらねえ!泥棒に育てた覚えはねえ!」
と兄の胸ぐらを掴みまして殴る殴る、ひたすら殴ってそのまま居間を一周してきたわけです。
そのあとも、親父は兄にひたすら小言や懇々と諭しておりまして遂には私が床に就くまで説教が続いておりました。
顔を腫らしながら親父の話を聞く兄を見ておりますと、なんだか
「いいか、俺みたいになりたくなきゃ親の
もんに手ぇ出すな」
と自らの身をもってして教えてくれているような気がしました。
それからうんと時が経ちまして、私が中学生になった頃です。
家の横にあります細い路地に誰かのお財布が落ちておりました。
親が落としたのかと思いまして、失礼を承知で中に入っておりました身分証を見ましたら知らない人のお財布でございました。
も入っておりまして六千円ほど。
中学生からしますと、六千円なんてのは十分すぎるくらいの大金なもんですから正直魔が差しました。
ですが先ほどのお話が頭を過ぎりまして間一髪踏みとどまって、家族に「この財布の持ち主知らねえか」と聞いて回りましたら、うちの婆さんが今日昼に来たガス屋だって言いましたから、持ち主に電話を致しましたんです。ガス屋さん大層ホッとしておられましたよ。
もしあの時に魔が差したまま拾ったお財布の中身を抜いていたら、私も子供の頃の兄のようになっていたかもしれませんね。
誰かにひたすらに殴られながら
「金で天下で回る者」。